CE東大阪・季刊誌・30号・寄稿・四回連続シリーズ最終
目線・「慈悲の実践へ向けて」
平成19年7月1日


 日本における慈善(奉仕・ボランティア)活動の具体的な起源について、記録として残されている中においては、飛鳥時代に聖徳太子が建立した貧民救済施設「悲田院」にまで遡るとされ、その原点は、仏教における「慈悲・喜捨」の実践にあると考えられています。
 行基・空海・空也・行円・重源・叡尊・忍性・一遍・願阿弥・・挙げ出すとキリがないですが、多くの名僧たちも民衆の中において、慈善活動、慈悲・喜捨の実践として、貧民・病者救済施設の整備や橋梁・道路・港湾・灌漑・田畑の整備などに取り組んで参りました。
 慈悲・喜捨の実践は、仏教が目指す涅槃(輪廻転生における苦しみからの解脱)のためにも重要な役割を担っており、諸行無常(この世の一切の全ては変化して移ろいゆく)の自他同一性、諸法無我(自我・あらゆるものへの執着を無くし、無我を自覚する)による自他同一性の理解により、生かされて生きているということを悟って、あまねく一切における苦を取り除いていくために必要な働きとなります。
 しかしながら、現代の世間一般における慈善(奉仕・ボランティア)活動においては、自分たち(人間)だけが幸せに豊かに暮らしていくために、自分たち(人間)だけの社会をより良くするために、というところへと陥りがちとなってしまう側面もあり、それは単なる人間の自己都合・自己満足、恣意的・独善的なエゴイズムに終始してしまう可能性が高く、逆に多くの弊害を結果的に生み出してしまうことになりかねないことを私は危惧し続けています。
 例えば、自分だけが、自分の家族だけが、自分の会社だけが、自分の参加しているコミュニティーだけが、東大阪市だけが、大阪府だけが、日本だけが、人類だけがというところから離れて、好き嫌いなどという感情も超えて、自分も含めてあまねく一切が苦の中にいるけれども、そのあまねく一切における苦を少しずつでも取り除いていけるような慈悲・喜捨の実践をしていくことにこそ、実は慈善(奉仕・ボランティア)活動の最たる本質があるのではないだろうかと考えております。自身におけるこれからの様々な活動においても、このことをできる限り自覚して進めて参りたいと存じます。
 誰もが皆、全く見ず知らずの人にも、野に咲く名も無き花にも、地面を這う蟻一匹にさえも、あらゆる全てのものに対して慈悲・喜捨の心で接していくことができるようになれば、様々な争い事、戦争、資源の貪(むさぼ)り、自然破壊などによる苦しみも、しかるべくに無くなっていくだろうと考えております。

 川口 英俊 合掌




トップへ戻る

Copyright (C)2007 Hidetoshi Kawaguchi, All Rights Reserved.