「矛盾解決について」
平成19年1月2日〜1月7日

・・矛盾解決について・1・・


さて、新年始めの考察は、矛盾解決についてであります。

この世を過ごすために大切となるのは、2006・考察シリーズにおける考察経過をまとめると、この世の無常を理解し、煩悩・執着を無くし、煩悩を慈悲に転化させ、智慧を完成し、慈悲を実践することによって苦の輪廻からの解脱を図り、涅槃へと達することであります。

そのためには、ややもすれば世俗における煩悩・執着にまみれ、負の感情(不安・恐怖・怒り・嫉妬・怨恨・傲慢・焦燥・後悔・怠慢・疑心など)、欲望の三毒である貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)に蝕まれてしまうことになってしまいがちな己の弱い心に打ち克っていくことが必要となります。

外部における事象の矛盾・パラドックス・アンチノミーを解決させたいと思うならば、まず自己内部に抱えている矛盾・パラドックス・アンチノミーを当然にも排除してからでなければならないと云うことについては、以前における考察で述べさせて頂いたことがあります。

しかし、四苦八苦である生老病死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の一つである求不得苦にあるように何を求めても得れることはできず、この世におけることをどうしたい、こうしたいと思ったところで、己のことも外部のいかなる事象も結局は何も思うようにはならないのが常でもあります。

むしろ、内外問わず、矛盾・パラドックス・アンチノミーを解決しようとすることもただ虚しいだけのことであり、解決はあり得ないものとして矛盾・パラドックス・アンチノミーを当たり前のように捉えることも必要ではないかと思うわけであります。

それよりもこの世の事象は、始めからそのようなものと考えることが大切で、特段解決を目指す必要もないのではないか・・

いや、そもそもこの世におけることで、矛盾・パラドックス・アンチノミーがあると考えること自体が愚かなことのように思えてくる次第でもあります。

矛盾・パラドックス・アンチノミーは、元々この世のあるがままのことであり、それが受け入れられない、受け入れ難い苦として捉えてしまうがゆえに、解決を目指してしまうことで、更に苦の泥沼に陥ってしまっているだけなのではないかと考えるわけであります。

そうすると、この世におけることで何かを解決したいと思うこと自体が、煩悩・執着の一つであり、負の感情・貪・瞋・痴に蝕まれてしまう苦の原因になってしまうものであると捉えることができます。

いずれ己も死に、やがて人類も滅亡し去れば、この世における矛盾・パラドックス・アンチノミーを解決対象として捉える存在もなくなり、ただ自然、大宇宙のあるがままの事象がこの世で繰り広げられていくだけで、それもやはり無帰論で述べさせて頂いている無に帰する中における程度の問題に過ぎないことではないだろうかと考えることができます。

あるがままを受け入れる寛容・・所詮は矛盾もその一つに過ぎない・・

とにかくこれまでの考察シリーズの検証をまずは随時進めて参りたいと思います。


・・矛盾解決について・2・・

・・我々は、この世のあらゆる事象・存在は、無常の中、「無」に帰する途上にあり、しかも無価値であることに気付くべきなのであります。・・

この世に人間存在がある限りにおいては、人間は無為・無用にも多種多様な価値観を次々に生み出し続けていくことでありましょう・・

生み出された価値観同士における衝突も繰り広げられ、矛盾・パラドックス・アンチノミーも所詮はその衝突の中におけることに過ぎないものであります。

本質的にこの世は無価値であることを十分に理解できれば、自ずと矛盾・パラドックス・アンチノミーの扱いについても容易に解決できると考えます。

ある意味で人間の生み出す価値観とは、人間の欲望・煩悩・執着における弊害の一部と捉えることもできます。

よって、涅槃に達するためには、欲望・煩悩・執着と同様に価値観も無くしていくことが大切になると考える次第であります。


・・矛盾解決について・3・・

栄枯盛衰、盛者必衰は世の常・・

人は必ず死するのに、なぜに生きねばならないのか・・

自らの「死」について真剣に見つめ「生」を考えること、自らの「死後」のことについて真剣に見つめ「人生」を考えること、人類の「滅亡」について真剣に見つめ「人間存在」を考えること、「人類滅亡後」のことについて真剣に見つめ「人間の歩み」を考えること・・

「生」と「死」、「存在」と「滅亡」は矛盾なのか・・

これは、別に矛盾ではなく、単なる大宇宙・大自然の摂理であります。

人間は、煩悩・執着を生じ抱えてしまうがゆえに、「生」における「苦」の中を彷徨い歩くことになってしまいます・・

その「苦」から解脱し、涅槃に達するには、煩悩・執着を無くすことに努め、煩悩を慈悲に転化し、智慧を完成させ、その智慧を実践させることが必要となるわけでありますが、では、「苦」から解脱すれば「楽」となるのかについては、私はまだまだ思慮途上であり、断定はできていません。

そもそも「楽」とは「涅槃」とイコールなのか・・

話を戻して、なぜに生きねばならないのかについて、「涅槃」に達するために生きるというのが仏教における考え方であります。

そもそも仏教において、「死」は完全なる終わり・寂滅ではなく、何度も何度も繰り返される輪廻転生における一過性のことであり、「涅槃」に達していない心・魂・精霊は輪廻の中でまたも気の遠くなるような長い長い時間に亘り、「苦」の中を彷徨い歩き続けることになるとされています。

「涅槃」に達すれば、生死に拘わらず既に「苦」から「解脱」し、智慧が完成した所謂悟った者、つまり、サンスクリット語(梵語)で「ブッダ(仏陀)」となります。

ブッダ(仏陀)となれば、生死は既に関係なく全くそこに矛盾など生じないわけでもあります。「人は必ず死するのに、なぜに生きねばならないのか」・・など考える必要もなくなるのであります。

では、あらゆるものの「大楽」「清浄」を説く「理趣経」は「苦」から完全に解脱した涅槃の境地について示すものとして捉えることができますが、その「大楽」「清浄」の意を真に理解するには、人間の煩悩・執着から生じる「大苦」「悪業」を真に理解してからでなければならないものでもあると今は考えていますが・・

「大苦」・「大楽」と「清浄」・「悪業」は表裏一体にして、いずれも区別することなく「涅槃」と解することができるものであるのか・・

うむ・・まだまだ未熟な拙僧では・・なかなかであります・・


・・矛盾解決について・4・・

人間の煩悩・執着が生み出す弊害となる様々な価値観・・善悪・優劣などの判断は、当然に智慧の完成された涅槃においては全く必要ないものであることについて、理趣経(般若波羅蜜多理趣品)では説かれています。

しかし、理趣経においては、一切あらゆるものが、これ清浄と捉えているため、欲望、三毒である貪・瞋・痴も含めて、清浄であると観自在菩薩の章にあります・・これは、欲望・執着・三毒に弊害性があることを認めながらも、その本性は清浄としていると解せれます・・つまり、煩悩・執着・三毒の弊害性から生じる、大苦・悪業についても、その本性は清浄なるところにあるとして、全ては大楽としている・・のか・・うむ・・

普賢菩薩の章では、自他の執着を離れて、すべてのものの平等を自覚することについて説かれていますので、執着を離すことは大切であることは確認できますが・・

ふむ・・各章を確認するのはあまりに早すぎるか・・

やはり理趣経を理解していくためには、それまでにかなりの段階を踏んでからでなければいけないものであり、正直、大いなる畏れを感じております・・軽々に進めることはできないものでありますので、理趣経の解釈については、まだまだ先にしておきたいと考えております。

とにかく、ここは本題である「矛盾解決について」に戻して次回を最終とし、いったん本考察を終えたいと思います。


・・矛盾解決について・5・最終・・

さて、新年最初の考察も最終を迎えました。

矛盾・パラドックス・アンチノミーは、元々「ない」ものであり、それらが「ある」と考えてしまうのは、やはり煩悩・執着を持つ人間の生み出す「妄想」の弊害によるところでありましょう。

あるがままが、あるがままと捉えられないのは、己の心に曇りがあるからであり、あるがままをそのままに捉えるためには、煩悩・執着から生じる「妄想」をやめなければなりません。

やはり、矛盾・パラドックス・アンチノミーがあると考えて解決を目指そうとすること自体が苦に陥る愚かなことであるということであります。

ということで、あるがままをあるがままに捉えていくためにも、煩悩・執着を無くす作業としての慈悲の実践が大切であると考えます。

結局は、慈悲の実践に落ち着くことになります。

川口 英俊



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